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分に随いて悪業を止めよ

『もろもろの悪いことはやめなさい もろもろの善いことをすすんで行い

 自ら心をきよくしなさい これがすべての仏の教えです』

「七仏通誡の偈」という、仏教全般に説かれる教えがあります。


 その仏教の一宗派である浄土宗は、阿弥陀さまの本願の力を信じ、念仏を称えて極楽に生まれていく、というシンプルな教えです。

 安直な曲解をして、念仏したらどんな悪いことをしても許されるだろうという考え(造悪無碍)も出ます。しかしそれではイケないのです。


 同じ念仏系の他宗と比べる時、通仏教の「廃悪修善」を外さないところが浄土宗の重要なポイントです。元祖・法然上人は、標語のごとく、「できる範囲で悪いことはしないように努めなさい」と勧めておられます。



 三国志の英雄・劉備が、後継者である頼りない息子・劉禅に向かって、

「小悪だからといって、してはならないことはしない。

 小善だからといって、しないことがあってはいけない」

と遺言して戒めています。

 一国の主に遺す言葉としては頼りなさを感じますが、されどそれが国政を担う人間としても基本であると言えるでしょう。



 では、その善悪の基準を何に置くのか。単に廃悪修善を説くだけなら、世俗の教えと変わらないのです。

 仏教で教える戒律の物差しを、生まれつき利己主義である我々人間に当てることで、自らの煩悩を見つめ、反省(懺悔)をしていく。これも仏教全体を貫く精神です。


 このわたしは、煩悩を燃えたぎらせて罪悪を積み重ね、結果報いを受けて、生まれ代わり死に変わりを繰り返している。これを信じ受け入れるのも仏教の前提となります・・・。


 と言われても、なかなかピンときませんし、反感すら感じるのが現実の私です。



 行事を前に掃除をせねばなぁ…と、座敷の角から仁王立ちし、「しなくてもキレイだ」とサボろうとする私。

 ま、少し掃除機を当てようかとやり始めると、結構ホコリを吸います。やれやれ、やっぱりと思って隅々まで懸け、さてコンセントを抜こうと腰をかがめて足元を見ると、近くにまだゴミを見つけて、どこを当てていたのか!と自分に苛立ちます。

 そうして掃除を始めていくと、あっちも、こっちもと掃除をせずにいられなくなります。汚れを感じる私になるのです。掃除の必要性が感じられる訳です。


 自分を見つめるということも、全く同じです。自分は善人。思いやりがあって、よく気が付いて、能力があって、と思い上がっている間は、反省もしません。次第に高慢さが自分を支配するでしょう。

 こんな愚かしい私が、と本当に自己を内省することの大切さ。その中からしか真に救いを求める心も沸いてこないはずです。

 念仏をして仏さまに向き合う(=自分に向き合う)ことが大事なのです。


          (当山・五重相伝、行中の様子(平成25年)より)

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