重文指定のお地蔵さまを訪ねてくださる方があります。
愛好家で、仏像に関するかなりの知識・見識をお持ちであることが多く、教わることばかりです。
当然ながら仏像への関心が第一で、目は拝むよりも美術品を観る目です。あくまでお参りの人と思って受け入れている住職としては、微妙なズレに寂しくなる時もあります。
しかし、話題が他のお寺の仏像のこと、教えのこと、地域、思想、歴史へと広がると、時間を忘れて話し込んでしまいます。
昨日お見えになった方は、ガイドブックの検索の項をしらみつぶしに回っておられて、訪ねたお寺にはマーカーを付けておられました。
仏像の知識を肥やすことよりも、ただただ、仏さまとじっくり対面し、祀られているお堂の空間に溶けて、心静かにその空気を味わって、楽しんでおられる方でした。
観光寺院の喧騒の中ではゆっくり仏さまと向き合えないこと、片や一般のお寺(檀家寺)は訪問者に疑いの目を向けてこられてお堂に入ることすらできないこと、博物館のショーケースに入ってしまった仏像はもはや拝む対象ではなくなることなど。
「純粋にお参りすること」がいかに叶い難いかを語ってくださいました。
さもありなんと思うことばかりでしたが、昨日はつくづく、そういう人に門を閉ざす寺ではいけないと思いました。
ほんとうににこやかに穏やかに話してくださり、こちらが、ありがたい気持ちにならせてもらいました。
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