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教学と現場

最終更新: 7月22日

 大村英昭先生(他宗→浄土真宗)の有名なフレーズに、「教学なき現場(布教)、現場(布教)なき教学」というのがあります。

 堅苦しい教学(教義理論と研究)が現場の信仰土壌の豊かさを排除してしまうことの弊害と、邪説・迷信に振り回されて本来の信仰を失ってきた歴史的事象と愚かさに論及されています。

 扱っておられた素材は、あちらの宗派独特の事情もあるのですが、これは恐らくどの宗派にも通じるであろう、本質的な問題を鋭く突いておられました。

 宗派の根幹にある教えが、現場では歪んでしまい、是正できない。互いが平行線、あるいは独歩してしまうといった乖離が起こるのです。浄土宗においても残念ながらその乖離はあります。


「現場」で、物心つく前からお檀家さん参りについてゆき、お寺の諸行事にも座らされてきた私にとって、父僧がお檀家さんに話す事柄や法要での説教師による法話は、毛穴から染み入るようにして吸収してきたものです。

 しかし、僧侶資格を取るべく佛教大学で浄土宗のことを学び出すと、幼少から聴いてきた法話が「教学」に基いていないことに気づいて、たいへんなショックを受けました。

 現場と教学とは、別物として掛け離れている現実を知りました。

 また、卒業後(“なんちゃって”大学院時代は特に)、現場に行けば僧侶たちの教学への関心は薄く、学問的な問い掛けは一切軽視(というか無視)されることも大きな衝撃でした。

 学者と説教師(含、その他現場の僧侶たち)とは、己の領分において互いに相手をバカにしていることを知りました。

 信仰もないのに紙の上で教えを振りまわす狡猾な学者と、学問もないのに自分勝手な祖師像や異なる教えを平気で語る厚顔な説教師。そのどちらにも憎悪を感じ、しかし私自身はどちらにおいても中途半端で軸足が定まらず、ふらふらと趣味のコーラス活動やアルバイトに時間を費やし、一方で寺を手伝いながら、父僧にも激しく逆らいました。

 若い時は、教学と現場の矛盾や自分の中の葛藤に腐りつつも、決して無駄な時間ではなく、一方で師表と仰ぐ先生との邂逅があって導いて頂きました。

 大学4回生の時に受けた教学の泰斗の講義が「ただただ、ありがたく」感じられ、指導を乞うべく大学院の末席を汚しました(本当に汚しました)。

 院をドロップアウトした頃に現場で拝聴した、ある布教師の法話が、教学に根差した希有のものであって、その時の感激が40代半ばになった今も私の原動力なのです。


 教えを正しく受け取り、正しく伝えていく姿勢、それには経典や祖師のことばに直参する態度が不可欠です。

 一生の間、問いかけと実践をしながら信行を深めていかなければならないと思っています。

                 (現場にて)

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