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法味

更新日:2021年2月11日

 子ども会の関わりで、人形劇や紙芝居、腹話術といった演劇を拝見する機会に何度か恵まれてきました。

 演者が聴衆を引き付けていく手法や瞬間を味わい、その凄みを感じられることが楽しみでもあります。

 一方、話半ばで演者が自身に帰ってしまうことも、しばしば見受けます。

 例えば、オーバーな台詞まわしをしたり、疲れをわざと見せて話を停めて笑いを取ろうとしたり、登場人物にチャチャを入れて物語をはぐらかしたり、はすから眺めてその場自体(=聴衆)を触ったり。演者はそれを大人向け(もしくは上級者向け)の演出と思っている節があります。

 しかし、それらは演者の驕りだと思うのです。そのことでせっかく物語の世界に入っている聴衆を白けさせてしまいます。

 所詮、演者の質が低いだけで、腕前を発揮するところを勘違いしているから為せるわざです。

 落語家の桂米朝さんがお弟子さんに、「話自体が持っている魅力を十分に伝える力を丹念にみがいていくことが大事だ」と常に言い聞かせておられたそうです。

 話そのものが持っている魅力があるのです。力みすぎて演者自体が前面に出るのは邪魔でしかありません。

 本の読み聞かせで、必要以上に声色を変えたり、感情を込め過ぎることで、返って聞き手の想像力を奪ってしまうと戒められるのも同じことでしょう。

 前の事柄などは、それ以前。そもそも取り組む姿勢としてアウトです。同じく米朝さんの言葉を借りれば、「目の前のお客をすぐに笑かすことに走って小手先の技術に逃げてはならない」との戒めに当てはまりそうです。

 あくまで謙虚に物語に向き合っていくことが大切なのだと思います。

 仏さまの法を伝える上においても全く同じことが言えると思うのです。

 教え(お経)をそのままに頂戴して伝える中に、自ずからありがたさがあるのです。

 例えばそれを現代人に理解できるように伝えなければなどと言って安易な譬えを用いて卑近なレベルに落としたり、源の意味を正しく受けとめてもいないのに分かり易くの名のもとに本来の教えを歪めてしまっては、謗法以外の何ものでもありません。

 (仏さまを“理解する”という言い方・態度そのものが傲慢です。我々人間が理解などできません。ましてや信仰もない現代人が)


 説教者の世界では、「私は、法を仏さまから皆さんへ〝お取り次ぎ〟する立場」と厳しく教え、それを受け手にも宣言して、自身に言い聞かせます。

 その徹底した謙虚な姿勢を失わず、お取り次ぎできるほどに御教えに直参して学ぶ努力をせねばなりません。

 お説教であれ日常の法事であれ、方法論や演出論は様々あってもちろんですが、生命線は、肝心の御教えをきっちりと受け止めてまじめに正しく説き伝えようとしているかどうかです。

 目の前の人を小手先で納得させることに走ってはなりません。自分の小さい器に容れるために教えをねじ曲げてはなりません。


 それらはみな、結局、自分の信と行が足りないことを暴露しているだけの話です。

 【法味(ほうみ)】という仏教語があります。微妙な仏法の滋味を言います。

 それをお坊さん仲間で、例えば(他人の話を聞いて)「今日のお話には、法味があった」と使います。つまり、「仏さまの御教えが十分に味わえるありがたいお話だった」という訳です。決して、安易に使ってはならない言葉だと思います。

 浄土宗の説教が教えから乖離しているということを以前書きましたが、現場で拝聴する法話のほとんどは、法味など微塵も感じられないのが現実です。

 なぜなら法味には「真理の本質」という第一義があるのに、それを無視した、演者の勝手な解釈のままに教えが捻じ曲げられた法話が横行しているからです。

 それを仲間内で褒め合っていたり、批判もしないでいることに私は平静でいられません。

それと同時にお取り次ぎできるほどに深く受け止めているのか、実践しているのか。その反省をしないといけないと思って、観劇の場や法話の席をあわてて後にするのです。




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